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2013年8月25日 (日)

松井秀喜 その野球人生4

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2013年8月2日 朝日新聞


  苦悩


輝かしい実績の裏には、けがとの闘いがあった。
巨人入団6年目の1998年、ひざ関節に炎症がおこる「たな障害」が発覚。
これが選手生命を脅かし続けた。ヤンキース移籍後の2007、08年には、たて
続けに両ひざの手術を受けた。

「ひざの軟骨がすり減っていた。最後は関節内に軟骨の砕け散ったものがいっ
ぱいになっていた。ひざの上の骨と下の骨は軟骨があればクッションになるが、
軟骨がないから、直接、上下の骨が当たったり、こすれ合ったり。半月板は大
丈夫だったので、軟骨だけだった」

ひざのけが以上にファンの記憶に焼きついているのは、左手首の骨折だろう。
06年5月11日、ヤンキースタジアムでのレッドソックス戦。左翼守備で飛球に
前進し、スライディング捕球を試み、グラブを地面に突いて骨折した。

「手首は事故。一塁走者が走り、ヒット・エンド・ランがかかっていた。フラフラ
した打球で、捕って素早く一塁に転送して併殺を狙っていた」

この骨折で、日米通算の連続試合出場が1768で途切れた。巨人時代の監督
で、師匠である長嶋茂雄氏の「その日にしか球場に来られないファンもいる」と
いう教えから続けてきた記録。大リーグに来てからは、巨人時代とは違う思い
で数字を伸ばしていた。

「ジーターのような選手なら、本人も出る、ファンも出続けてくれとなっていたが、
僕はヤンキースでは巨人ほどの地位はなかった。トーリ監督が『協力する』と
言ってくれ、どんな試合でも起用してくれた。長嶋さんも負傷時に、守備で何度
か使ってくれた。もちろん、応援してくれたファンのためもある。続けさせてくれ
た人たちへの感謝や、恩返しで続けられた」

だが、数字が止まったことで前向きにもなれた。

「これで、チームから与えられる休養日も、良い意味で受け入れることができる
と思ったのを、覚えている。ひざのこともあったし、年齢も32、33歳ぐらいになっ
ていた」

「手首は骨がくっつけば大したことはなかった。やはり両ひざが大きい。走れな
くなるのが、一番、プレーに影響が出てしまった」

相次ぐ手術や負傷で、野球人生の分岐点に立たされていた08年のシーズン
前に、結婚を決断した。

「偶然そういうタイミングだった。色々助けてもらった。とくに食事面は大きかっ
た。今まで毎日外食だったけれども、それがほとんど自宅での食事。選手寿命
も延びたかもしれない。最後の数年は成績も下がっていったけれど、しぶとく
プレーできたのは、そういう支えがあったからかもしれない」

巨人からヤンキースへと日米で「王道」を歩んだ後、最後の3年間は移籍を繰り
返した。

「エンゼルス、アスレチックス、タンパ(レイズ)も、チーム哲学みたいなものが
違った。ヤンキースのように、必ず優勝という感じではない。表現が正しいか
分からないが、勝ちを求めながらも、自由に伸び伸びしていた。ソーシア、メル
ビン、マドンと、いい監督にも巡りあえた。巨人とヤンキースで終わったら、見
えなかったものがあったかもしれない」

プロ野球選手として20年。改めて振り返ると、他にも多くの運や縁があった。

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